【怪奇小説】青虫ラーメン〜猫と年寄りしかいない〜
〜猫と年寄りしかいない〜
数日後。時間が止まったような日常を珍保長太郎は送っていた。頭の悪い客にまずいラーメンを作って出して食ったら金を受け取る。賽の河原のようであるが、これが人生というものであろう。つまり、生きている間から人々はあの世に片足を踏み込んで過ごしているのである。死を恐れることはない。すでにお前は死んでいるからだ。
さて、このまずいラーメン屋だが、名前は『ラーメン珍長』。由来は説明するのもばかばかしいが、店長のチンポが長いからである。もちろん、客に聞かれたら、そのつど違う説明をしている。場所は東京の代田橋。代田橋は京王線の駅を出て甲州街道までが世田谷区で、そこから先が杉並区になっている。
こんなまずいラーメン屋でもつぶれないのは、この一帯の家賃が安いからである。しかも、近くには競合する店がない。さらに失礼ながら、この辺には貧乏人しか住んでいないので、客の舌が腐っている。貧民地帯なのである。半分くらいスラム化している。
スラムと言っても柄の悪いすぐホールドアップするような黒人が群れているわけではなく、年寄りばかり多い。さらにいうと年寄りと猫ばかりが多い。この中には猫が歳を取って人間の年寄りに化けてるのも数匹か、まじっているのではないか、と珍保長太郎は思っていた。
歳で年金生活を送ってるので金がない。金がないので建物が荒れても直す金がない。ゆえにどんどんスラム化が進んで行くという仕組みである。あきらかに、こじゃれた世田谷とはふんいきが違う。
貧乏人ばかりなので、グルメなどは誰も求めていない。産まれて時から安いまずいものしか食ったことがない住民しかいないので、味覚が腐っているのである。まずいものの方が食い慣れていて『うまい』と感じるのかも知れない。
このへんの猿どもにとっての食べ物の良し悪しとは「お腹がいっぱいになった」「安くてたくさん食えた」というようなガッツリ系の価値観が基準なのである。だから、安いがまずくて量が多いだけの、ラーメン珍長でもつぶれないで生き残っているのであろう。
「猿、猿、猿、猿」
たまに珍保長太郎は無意識にこのように客に向かってつぶやいていることがある。心の中で思っていることが漏れてしまうのである。昔からの癖なのであるが、気をつけても治らない。脳に障害があるのだろう。
おしっこのように考えていることが漏れてしまう。これでは精神の流出ではないか。
珍保長太郎がそう考えていると客が口を聞いた。
「なにかいいましたか、店長」
豚野餌吉である。またいる。いなくていいのに。ぶひぶひ、鳴きながらまずいラーメンを食っている。毎日来るわけではないが、数日おきには来る。毎日、来ていたらそのうち殺していただろう……と珍保長太郎は思った。
「いえ、いえ。この前、井の頭動物園に行ったので、そこの猿山のことを考えていたのです」
あたりさわりのないことを言う珍保長太郎。まったく心のこもっていない笑顔を豚野餌吉に向ける。
「ああ、猿山ですか。猿の肉は食うとすっぱいそうですな。はっはっはっ」
とリアクションに困るようなことを言う豚野餌吉。
この豚、どうしろというのだ。へえ、猿の肉はすっぱいんですか、それは知らなかったなあ……と感心でもしろというのか。豚め。豚め。時々、ラーメンを食いに来る豚め、と珍保長太郎はまるまると太った豚野餌吉の身体を見ながら思った。
豚のように太っていて知能は猿くらいである。珍保長太郎はこの豚だか猿だかわからないものを心の底から軽蔑していた。匂いもすこし臭いのである。不潔な中華料理屋のすえたラードの匂いがする、やはりデブは臭い。
こういう豚に限って常連になってよく来る。ほんとうに来ないでほしい。こんなまずいものを何度も食うなんて頭がおかしいんじゃないか、と珍保長太郎は思ったが、おそらくその通りなのであろう。しかし、こういうばかがいるからこそ、商売が成り立っているのである。
ほんとうに因果な商売だ。葬式屋か、ラーメン屋か、というくらい忌まわしい。珍保長太郎は心の底からこの仕事を嫌になった。いますぐ、この豚をラーメンスープの大鍋に投げ込んで煮殺して、人生をやり直したい。刑務所の中で……。
珍保長太郎は苦しみながら煮込まれて死んで行く豚野餌吉の姿を想像して、にやにや惚けたように笑った。その顔を見て豚野餌吉はなにか悪霊でも見てしまったようないやな気分になって口をとじた。
珍保長太郎はもともと、ばかと口を聞くのが嫌いだったので、豚野餌吉がだまりこんだので、ほっとした。
その調子だ。豚め。黙って食うんだ。餌だ。これは豚の餌だ。作った本人も豚の餌だと認証してるくらいのまずい餌だ。それをがつがつ食え。豚だからな。黙って食って黙って金を落として行け。それがお前(豚)と俺(店長)のゆいいつの繋がりだ。それ以上を求めるな。『マスターと親しく口を聞く常連客』などという幻想を抱くんじゃないぞ。わかったか。わかったらさっさと出て行け。
珍保長太郎がなにか怖い顔をして見ているので、豚野餌吉は、ぼくはなにか悪いことをしたでしょうか、と不安な気持ちになりながら、ぶひぶひとラーメンを食っていた。鼻息がなぜか豚の鳴き声にそっくりなのである。
豚野餌吉は本名を赤座と言う。仕事はアムウェイのセールスマンをしているそうだ。やはり、知能が低い。これは前に、誰も聞いてないのに、自分で自己紹介を始めたのだ。珍保長太郎は、『はあ、そうですか』と言外に何を言い出すんだこのばか、というニュアンスをこめて冷たく答えたのだが、ばかなので通じなかった。
今日は豚の隣に美人が座っていた。友人ではない。豚と人類のあいだに友情が成り立つわけがない。たまたま隣に座ってるだけだ。
「店長、今日もあいかわらずハンサムね」
とオッパイデカ子が言った。
もちろん、そんな名前の人類がいるわけがない。珍保長太郎が心の中でつけている名前である。この豊満な美女はたしか本橋というのが本名だった。これまた常連客の一人だったが、豚野餌吉とは違うタイプの空気の読めなさを持っている。めんどうな客だった。
「ハンサムではありませんよ。干物みたいものです。アジの干物。しかも、素人が熱海あたりで釣って作った生干しの干物です。大腸菌やら梅毒スピロヘータやらO157がうじゃうじゃ繁殖してる腐りかけですな」
謙虚に答える珍保長太郎。豚に対応するよりは丁寧なようだ。ホルモンの影響であろう。
「まったくユーモアとウイットにとんでるのね。まるでヨーロッパの紳士みたい」
目にハートマークを浮かべて答えるオッパイデカ子。珍保長太郎に気があるらしい。
なにを言い出すんだ、この白痴、と珍保長太郎は思ったが、舌を噛み切って口に出すのはこらえた。日に何度も舌を噛み切るので先はぎざぎざになっていた。
「今日のおすすめはなにかしら、店長」
とオッパイデカ子。
「何度も言っていますが、おすすめできるものは、なにもありません。しいて言うなら、今すぐUターンして駅前のセブンイレブンでおにぎりでも買って、帰って食べた方がずっとおいしいです。最近のコンビニのおにぎりはうまいですからね」
「まあ、イトーヨーカドーの回し者のようなことを言うのね!おもしろい方」
鈴のような声をあげて笑うオッパイデカ子。珍保長太郎は、だんだん、いらいらしてきた。
「簡単にできるものというならば、ただのラーメンです」
「では、ただのラーメンをください」
珍保長太郎が出したまずいラーメンをすするオッパイデカ子。
「おいしい! 店長の愛がこもっているのね!」
いや、なにもこもってはいない……と、苦笑いを浮かべる珍保長太郎。どうも、この女は苦手だった。ある意味では豚野餌吉より苦手だった。豚は食べ物の一種と思えばがまんはできるが……。この女は牛乳の一種とでも思えば、しんぼうができるだろうか。
珍保長太郎はオッパイデカ子の突き出た胸部を見ながら思った。俺に好意があるようだが、良い気になって付き合いはじめると、とんでもないひどい目にあう気がする。地雷臭がする……。トランプでいうとババとかジョーカーを引くようなものだ。この女は。いやな予感がするぞ。
セックスしないぞ、セックスしないぞ、と死刑囚用の独房の中の麻原彰晃こと松本智津夫のように、心の中で繰り返しながら、珍保長太郎はオッパイデカ子と『客と店長』という一線をこえないように注意していた。
しかしながら、敵はなかなかしぶとい。もしかして、安心してセックスしたとたん、首筋に噛み付いて、血をちゅーちゅーすすり出すたぐいの魔物なのかもしれない。
珍保長太郎は警戒した面持ちで、胸の巨大な美女を見た。オッパイデカ子は、なにもなにも考えていないふりをして、吸血鬼のように微笑んだ。やはり、やばそうな物件だ。
腹の出た男と胸の出た女が出て行って客足がとだえた。
こんな感じで常連客がわずかにいて、他にまれに来る客と、たまたま通りかかって入ってしまい後悔して二度と来ない客がいて、ラーメン珍長の商売は成り立っていた。成り立っていると言っていいのかどうか、わからないようなぎりぎりの収支だったが。
珍保長太郎は外に出て、眠ったような古い商店街を眺めた。近くに猫がいた。通りの先に年寄りがいて、更に遠くにも年寄りがいた。
「猫と年寄りしかいない」
珍保長太郎は、とくになんの感傷もなくつぶやいた。
あらすじ
代田橋でまずいラーメン屋を営んでいる珍保長太郎。来店した地元の暴力団員と喧嘩になり、居合わせた客のひとりが死亡、珍保長太郎も重傷を負う。指名手配された暴力団員は、逆恨みして、珍保長太郎の女友達をシャブ漬けにして廃人にしてしまう。怒りに燃えた珍保長太郎の孤独な復讐が始まる!
登場人物
珍保長太郎 :『ラーメン珍長』店主
豚野餌吉 : 客
オッパイデカ子 : 謎の女
ヤクザ悪左衛門 : 暴力団
糞賀臭男 : 暴力団
歯糞全身男 : 暴力団
死神酋長:医者