【怪奇小説】ヒトデ男の恐怖~暑い国から帰ってきたスパイ~
~暑い国から帰ってきたスパイ~
モヤシは目を覚ました。
「ここはどこだろうか?」
だんだんと記憶がよみがえってきた。ヒトデ男に追われて庭に逃げ込んだ時に、穴に落ちたのだ。たぶん古井戸ではないか……。上を見ると穴の口が見える。そんなに深い井戸ではないが、ちょっと登って逃げるのは無理のようだ。
身体の側面が痛い。落ちた時に打ったらしい。底に泥や枯葉が溜まっていたのが幸いしたようだ。もっと深い井戸だったら、死んでいたことだろう。とはいえ、どう考えても、ここから生きて出られるようには思えなかった。
「助けてーッ! 誰か、助けてください! 誰かーッ!」
モヤシはしばらく大声で叫んでみたが、喉が痛くなってきたのでやめた。体力を温存しておいたほうがいいかもしれない。また、赤堤沼の隣のボロ家は、幽霊屋敷みたいな雰囲気があるので、あまり人が近づかない。ぐうぜん、通行人が通るとは思えない。
こういうところは小学生は逆に好きだったりするものだが、その小学生であるモヤシですら入ったことがないほど、このボロ家は荒れ果てて、怖い雰囲気があるのだ。
うっかり、足を踏み入れると殺されてしまいそうな気配がある……。
じっさい、ヒトデ男がいたんだから、その気配は本物だったのである。
そういえば、デブとキチガイはどうしたんだろうか? 赤堤沼のほとりで倒れていたところまでは覚えている。もうすでに、食われて死んでいるに違いない。
そう思うと悲しかったが、ヒトデ男に食われて死ぬのと、枯れ井戸の底で、じわじわと餓死していくのは、どっちがつらいかは、よくわからなかった。
「おおーい! 誰かー! 助けてくださいーッ!」
悲しくなってきたのでモヤシはもう一度、叫んでみた。
「……うるさいなあ」
後ろから声がしたので、モヤシはぎょっとして振り向いた。
「俺もここで何十年も叫んでるが、誰も通りかかったりはしないよ。あきらめるこったな」
見ると、井戸の底の薄暗闇に、生ゴミのようなものがいた。汚い。不潔で臭い。ハエがたかっている。もうひとり、穴に落ちた人間がいたとは……。ホームレスだろうか? いや、落ちた時はまともな人間だったが、耐久生活をしているうちにコジキのような姿に変貌したのだろう。
それにしても、井戸の底でどうやって生きていたのか? モヤシは、その生ゴミ男の元の姿を思い浮かべようとしてみた。……見覚えのある顔が浮かびあがった。
「兄さん!?」
驚いたのなんの。
「ん、なんだ?」
わけのわからないようすの兄。無理もない。兄が失踪したとき、モヤシはまだ赤ん坊だったのだ。モヤシも兄の写真を持っていなかったら、ぜったいにわからなかっただろう。
「俺の名前は坪内文二です」
しばらく、兄はぼけっとしていたが、だんだんと真実が頭にしみこむと、驚きの表情に変わった。
「ええーッ!」
モヤシはヒシと抱きあおうかとも思ったが、相手が汚かったのでやめた。それに……。
サバイバル生活を送っていた兄には悪いが、あまりにも変貌がひどかったのだ。気持ち悪い、と言ってもいい。昔のアイドル顔とお母さんに呼ばれていた面影はまったくない。全身が皮膚病。疥癬にやられて白いカビの生えたクレーターのようなものに、顔中が覆われていた。シラミやダニ、寄生虫も大量についていることだろう。皮膚病のために髪の大半は抜け落ちていた。その姿は落ち武者をさらに悪化させたようなありさま。
また、とうぜんながら歯医者もない。歯磨き粉も歯ブラシもないし、歯ブラシの代用品を考えようとした痕跡もない。なので、歯茎が腐り、かなりの歯が抜けたので、死にかけた老人のような歯抜け状態になっていた。
その口臭の臭いのなんの。歯槽膿漏が顎の骨まで腐らせているのだから、無理もない。真正面にいると臭すぎて呼吸ができないので、モヤシはなるべく横を向いて話をした。
モヤシは兄に幻滅をした。兄はどうやら、密かに海外に逃げて、サウジアラビアあたりで国際的なスパイとして活躍していたわけではなさそうだ……。
モヤシの兄、坪内拓也は、ことのいきさつを話した。
「実は俺は著名な反核団体『セイブ愛地球』に入って活動家をやっていたのだ。世界的に名の知れた団体だからな。文二も知っているだろう。あれから十年経ってるからな。そろそろ、政権与党になってる国も世界ではいくつかあるんじゃないかな」
自慢たらたらと話す兄。なんとなく、態度が偉そうである。よく知らないが組織の中では、幹部クラスだったらしい。
「聞いたこともないけど……」
正直に言うモヤシ。
「そんなバカなことがあるかッ! きさま、ブルジョアの犬か? 大企業と軍需産業に癒着し腐敗した与党が滅びて、人民の信頼を得た『セイブ愛地球』が第一党になるというのは、科学的、歴史的に当然の流れなのだぞッ! 間違っているわけがないッ!」
とつぜん、激怒しはじめる兄。なにかの琴線にふれたらしい。しかし、おびえたモヤシを見て、緊張をやわらげた。
「ま、小学生だから無知なのはしょうがない。もっと政治を勉強したまえ」
なんだ、このおっさん。
モヤシは、あっという間に兄に反感を感じて嫌いになった。ラーメン屋でからんできた自称ウルトラ忍者のおっさんも困ったものだったが、それより、この兄には、生理的に嫌悪感を抱かせるものがあった……。
「さて、ここのボロ家に住んでいるのが、御用学者の生源寺荘子という悪いやつなんだ」
「御用学者って?」
モヤシが聞く。
「政府と癒着している悪い物理学者なんだよ。こともあろうに原発はクリーンなエネルギーだ、などと発言している危険人物だったんだ。我々『セイブ愛地球』の関係者が、地元住民のふりをして何度も原発稼働禁止の裁判を起こしてたんだが、そのたびに、この御用学者、生源寺荘子めが、原発に危険性はない、などという偽造したデータを出してくるので、負けていたんだ。腐敗した大学のお抱え教授さまだからな。原発に対する、国民の怒りと悲しみの声を、まったく理解しようとしないのだ」
怒りをこらえて震えている兄。少し間を空けて、内緒話をするようにニヤリと笑う。
「……だから、我々は生源寺荘子を消すことにした」
「ええっ、それって殺人じゃない! ひどすぎるよ」
率直にモヤシが言う。
「バカヤロウ!」
ボカッ!
いきなり兄がモヤシを殴りつけた。
「原発は危険な放射能を吹き出す火薬庫と同じなんだぞッ! このまま、政府の言いなりになっていたら、世界中で何兆もの人間が被曝して死ぬことは確実だッ! それに比べたら、御用学者の命の一つや二つ、まったく安いもんだッ! あまりにも当然の理だから、勉強の足りない小学生の身分では、反論することは許さんぞッ!」
モヤシには反論する気など、さらさらなかった。ただ、軽蔑してだまって兄を見ていた。おそらく、井戸の中で十年もの長い年月をすごしているうちに、もともと過激だった思想が、より、かたくななものに、なってしまったのだろう……。
「それも、いつものように、ただ爆弾をしかけて殺すというのでは、おもしろみがない。本当は原爆で殺すというのが良かったんだが、当時の我々のコネでは入手ができなかったんで、そこで原子力発電所から盗んできた、放射性物質を使うことにした」
兄の団体のひどい話に目を丸くするモヤシ。
「しかも、ちょうど良いことに、この御用学者、生源寺荘子さまは妊娠していたんだ。しかも、相手の男は不明。なんでも不倫らしいよ。へっ。まったく進歩的な女性か、なにか知らんが、虫酸が走る!」
この革新派の兄貴、女性問題となると急に保守派になるらしい。
「原発推進派と言われている女性物理学者が、自らクリーンだと宣言している放射能のせいで、奇形児を生むんだ! ギャハハハッ! こりゃあ、皮肉が効いていて、笑える話だろう? アアン?」
腹を抱えて爆笑する兄。その兄を見て、モヤシは吐きそうになった。
「そこで地球の環境を守るためなら、どんな危険な任務でも厭わない『セイブ愛地球』大幹部の俺の出番だッ! 俺は自らが被曝する危険は承知で、大量の放射性物質をカバンに入れ、数回に分けて深夜にこの庭に運びこんだ。そして、穴を掘って、家の周りに埋めた。まさか、御用学者さまも、自分の庭に、ガイガーカウンターが振りきれるほどの放射性物質が埋まってるとは、夢にも思わなかったろうな……」
満足そうな兄。
「だが、残念なことが起きた。最後の一回を庭に埋めた帰りに、俺はこの古井戸に落ちてしまった。そのまま、消息不明になったまま、十年にいたるというわけさ。まあ、十年というのは、さっき文二に聞いて知ったんだけどな。三十年くらいは経ってると思っていたよ」
兄の話は終わった。モヤシは兄がこつぜんと現れると、すべてがひっくり返ってうまくいく、と思い込んで生きて来た。確かにひっくり返りはしたが、少しも良くはならなかった。それどころか、最悪だった。
もうひとつ。
兄の話が、モヤシのボンヤリした頭の中に染み込んでいくにつれて、もうひとつの驚愕的な事実が浮かんできた……。
あまりにも信じられない……。
あまりにも、悪魔的な……。
つまり……。
ヒトデ男の生みの親は兄さんだったのだ!
あらすじ
呪われた町、代田橋。ここでは今日も怪奇現象が勃発していた。どうやら河童のような生き物が、赤堤沼から現れて、人間を襲って食っているらしい。『ラーメン珍長』のコックで殺人鬼の珍保長太郎は事件の解明に挑む!
登場人物
珍保長太郎:『ラーメン珍長』店主
バカ:新実大介
ヒルアンドン巡査:安藤正義
弱虫探偵団
モヤシ:坪内文二
キチガイ:今金弓彦
デブ:田淵哲
モヤシの母:坪内伊佐子
モヤシの兄:坪内拓也
中学生:唐木政治
中学生の弟:唐木将紀
ウルトラ:門前正月
旦那:中島圭太
奥さん:中島ルル
娘:中島グミ、5歳
小犬:モップ
元プロレスラー:三船龍太郎
大家:生源寺荘子