【怪奇小説】青虫ラーメン〜瀬戸内寂聴ならば可能〜

12月 23, 2023

〜瀬戸内寂聴ならば可能〜
こういう古い町につきものなのが、ヤクザである。下北沢は暴力団同士の取り決めやらなにやらで、事情は知らんが、どの組も手を出さないことになってるらしいが、代田橋はいるのである。しかも、地回りのしょっぱいヤクザが。
魔界都市、新宿では、やる気全開のヤクザが日夜、中国マフィアの蛇頭、ロシアンマフィア、韓国ヤクザと血まみれの死闘を繰り広げているらしいが(新宿鮫で読んだ)、ここらにいるのは、なんだか、だめそうな二流のヤクザである。
ヤクザ社会にも金持ちと貧乏人がいるんだな、と珍保長太郎は感心したが、二流だからと言っても怖くないわけではない。むしろ、はした金を狙ってねちねちとやってくるから、面倒である。
おまけに、この辺は貧民街なので覚せい剤も広まっているらしい。壁がぺらぺらの悲しい安アパートの奥で、今日もシャブを打ってラリラリになってる貧乏人がけっこういるに違いない。そういう金のないところから、さらに金をむしりとって商売してるのが、二流のヤクザである。
金のないところから、むしりとってもたいした金額にはならないのだが、そういう甲斐性しかないから、都心ではやっていけずに代田橋あたりに流れて来るのである。その点は俺も同じだが、と珍保長太郎は思った。
そのせこいヤクザが来るのである。ラーメン珍長に。来る目的がこれまた、せこい。おしぼりを注文しろ、というのである。食い物屋で出て来る温まってほっかほかしてるあれである。昔と違って今は上納金をおさめろなどと言うと、脅迫で逮捕になるので、いちおう、ビジネスということにして、毎月、法外な値段でおしぼりを買わせるのである。
珍保長太郎もはじめは相手がヤクザだと気付かずちゃんと相手をしていたが、値段を聞いてみると、けっこうな金額。ネットで相場を調べてみたがあきらかに高い。とはいえ、けっして払えないような金額ではないところが計算高い。
もちろん断ったが、断られて『はいそうですか』と引き下がるようではヤクザをやっていられない。常連のようにしつこくやって来る。しかも、ラーメンまでちゃんと注文して食って行く。いちおう、お客なので出入り禁止するわけにもいかず、なかなか困っている。
それとなく脅したりしながら、しょっちゅうやって来る。ほんとうにうるさい。うざい。だから、めんどうになって払ってしまう店も多いのだろうな、と珍保長太郎は思った。
しかし、それで払えるのはちゃんとした経営の店だけである。ラーメン珍長のような、つぶれるかつぶれないかというあたりで、ずっと低空飛行を続けてるところが払えるわけがない。
俺は勇気のかけらもない男だが、いらん金を払うのだけはいやだ!
珍保長太郎は、その点だけははっきりしていた。
ある日のこと。店にいたのは豚野餌吉とオッパイデカ子と知らん客。知らん客はまずそうな顔でラーメンをすすっていた。まずくて量が多いので、残すかもしてない。残したら、嫌な気分になって二度と来ないようになにか嫌みでも言ってやろうと、珍保長太郎は心の中で台詞を考えていた。
客は来なければ来ないほどよい。その方が楽だ。なにしろ働かなくてすむ。貯金残高を見てあせってる時は、どうやって客を増やしたら良いかと急に考え出すのだが、それ以外のときはすっかり忘れている。
今日も豚野餌吉は絶好調だった。たまたま、席が隣になったオッパイデカ子に、さかんに長舌をふるっている。オッパイデカ子に性的な欲望を感じているのかもしれない。人間じゃないくせに。食肉のぶんざいで人類に愛を求めるとは身の程知らずめ。珍保長太郎は怒りでチンポをふるわせた。長いのですぐふるえてしまうのである。
たぶん、オッパイデカ子に獣姦の趣味でもないかぎり、その性欲はかなわないのではないか、と珍保長太郎は考えたが、オッパイデカ子のうさんくさい美人顔を見ていたら、考えが変わった。
いや、この女なら獣姦くらいは簡単にこなしそうだ。すでに犬、猫、馬などとなんども経験があるのではないか。それならば、そのコレクションに豚をくわえたくなっても、おかしくはない。ファックのコレクターではないか? そう考えると、いろいろと合点が行く。
やはり、やばい匂いがする。
珍保長太郎は悪魔でも見るような目で胸の豊かな美女を見た。十字架や銀の銃弾を用意して置いた方がいいかも知れない。
「私がとくにうまいと思ってるのが、このメンマです!」
ぶーぶーうなりながら豚野餌吉が力説する。
「はあ」
まったく関心がなさそうなオッパイデカ子の反応。
「こう見えても私、日本全国のいろんなラーメンの一流店を食べ歩いているのです。このメンマほど、うまいものはない。さすがの腕前です。まあ、確かに総合点では、行列ができる名店には劣ります。しかしながら、メンマは絶品です」
「はあ、そうですか」
「くぷー。くぷくぷ」
なにか、うなっている豚野餌吉。屠殺されて生き血を抜かれて苦しんでる豚にしか見えないが、感動をしているという表現らしい。
「それなら京王ストアをほめてくれ」
がまんできずに珍保長太郎が口をはさむ。まだ、修行が足りないようだ。
「それはどういう意味で?」
と豚。
「そのメンマは駅前の京王ストアで買ったやつだ。それをそのまま入れてる」
珍保長太郎はとくに感慨も感動も憎悪もなく、たんたんと言った。
「えっ……」
絶句する豚野餌吉。やがて焼豚のように真っ赤になる。バーナーで焼かれて真っ赤になるのが似合う男……と珍保長太郎は思った。自意識過剰で、のたうちまわって苦しんでる豚。まったくどうでもいい、と珍保長太郎は思った。ひとかけらもこの豚に関心が持てなかった。
ふと、オッパイデカ子を見ると、豚野餌吉を見てにやにや笑っていた。
ああ、なんか嫌な感じ、この女、と珍保長太郎は不快になった。
そのオッパイデカ子が突如、大声を出す。
「さすがね! 店長の作るラーメンはおいしいから、京王ストアのメンマでも特製に感じられてしまうのね!」
な、なにを言い出すんだ、この白痴オッパイ。ここで豚野餌吉に助け舟を出してどうするんだ。中二病に苦しむ豚の自意識を救ってなんの利益があるのだ!
珍保長太郎は心底ぎょっとして、得体の知れないオッパイデカ子に恐怖を感じた。十字架……十字架はどこだ!
見る見る復活する豚野餌吉。
「その通りですとも! まさに私が言いたかったのはそれです! ようするに、ラーメン珍長のラーメンはうまいと私は声を大にして言いたかったのです!」
よみがえる豚。こんな豚、二度とよみがえらなくていいのに、と珍保長太郎は思った。ドラキュラのように灰になって消えてくれないものだろうか……。
「この店がつぶれかけているのは知っています。それは店長にやる気がないからです。でも、私はこの店とこの味を守るためなら命をかけて戦いたいと思います!」
どうだ、と言わんばかりに珍保長太郎を見て胸を張る豚野餌吉。
よし、殺そう。
珍保長太郎は、こういう脂肪層の多い豚の腹を刺したら何秒くらいで死ぬだろうかと考えながら、包丁を手にとった。その時である。
ギイイイイイイイイイイイイイイ。
ドアが開いた。入って来たのは、いかにも裏稼業ですよという顔つきのヤクザ。おなじみのおしぼり売りの男である。珍保長太郎は、この男には『ヤクザ悪左衛門』という、見た目そのままの名前を付けていた。
無言で店内ににらみをきかすヤクザ悪左衛門。ああ、めんどうなのが来たぞ、と珍保長太郎は思った。珍保長太郎の関心がヤクザに移ったおかげで豚野餌吉は命を救われた。だから、豚野餌吉はヤクザに感謝すべきである。
ところがこの豚、露骨に嫌な顔をしてヤクザを睨みつけた。もしかして、この豚、正義漢の豚なのかもしれない。市民運動をするタイプか……。
おいおい、このヤクザさまが豚野餌吉の顔に気付いて気分を害して店内で暴れ出したらどうするんだ、と珍保長太郎はふんがいした。
まったく、自分のことしか考えていない豚だな。大人なら、やばそうな空気を察して、早めにラーメンを食って店を出ていたらどうだ。それが大人の対応ってもんだろう。この腐れ豚が……。
珍保長太郎は豚野餌吉のよけいな反応にはらわたが煮えくり返り、今すぐ、そのラーメン食べ歩きでぶくぶくと脂肪太りした腹の贅肉の脂肪の部分を手にした包丁でえぐり取り、ヤクザさまに差し出したくなった。
脂身を感謝する神はいるだろうか……。珍保長太郎はそう考えたが、よくわからなかった。血の雨が降りそうな気配を察して、知らん客がそそくさと会計をすませて外に出た。こちらは大人のようである。もう二度と来ないだろうが。
ゆらりとヤクザ悪左衛門が口を開いた。太平洋がふたつに割れて、真ん中に道が出来そうな迫力である。
「いらっしゃいませの言葉もないのか。つまり、来るなと言いたいということか。こんな冷たい対応をされると、さすがの俺も冷静ではいられなくなってしまうな。こんなに傷ついたのは初めてだ。このおとしまえをどうつけてくれるんだ」
うわっ、さすがヤクザさまである! 入って3分で恫喝のネタを見つけてしまった。プロのかがみだ。珍保長太郎は変なところに感心した。
どんな時でもいちゃもんをつけて金にする。商機はけっして見逃さない。すこしでも隙を見せると、丸裸になるまで金をむしり取られてしまう。
「いらっしゃいませ」
平静をよそおって珍保長太郎が答えた。冷静に対応した。もめごとなく出て行ってもらいたい。さらに、もうちょっと愛想をよくした方が印象が良いかと思い口のはじを5mmくらいつり上げて作り笑いを浮かべた。
「なんにしましょうか」
「ああん? この店は席に着くなり客にメニューを決めることを強制するのか? すげえ、態度のでかい店だな、コラッ! 俺はほんとうに今日はマジキレしそうだな! このおとしまえはどうつけてくれるんだ、ええっ!?」
恫喝するヤクザ悪左衛門。珍保長太郎の顔から1センチのところまで近づき、にらみをきかす。もう少しでキスをしてしまいそうな距離だ。
うわあん! なにを言っても悪く取られてしまいますよ!
珍保長太郎は泣きそうになった。小便も少しちびってしまった。50を目前にして、膀胱の筋肉が弱って来ているのである。
いかんいかん。これでは相手の思うつぼだ。ここは毅然とした対応をとらなくては。こっちだって無駄に50年近く生きて来たわけではない。ほとんど無駄な人生ではあったが。
「もちろん、強制などはいたしませんよ。どうぞ、ごゆっくりメニューを決めてください。はい、お水です」
怒らず甘やかさずである。きりっとした顔で、すばやく水とメニューを差し出す珍保長太郎。人間、水を出されると飲んでしまうものである。そして、水を飲んでしまうと、なんとなく一服した気分になって落ち着いてしまうものである。
「うむ」
珍保長太郎の策略に乗せられてしまうヤクザ悪左衛門。このへんが新宿などでは縄を張れない二流のヤクザである。自我が弱いので、すぐに相手の態度に影響を受けてしまう。
しかも、差し出されたメニューまで一応、読んでしまう。見てもとくに新しいことは書いていないのだが。そこは人間の悲しい性である。こんな知性的とはけっして言えない暴力団の男でさえ、目の前に文字が現れたら無意識に読んでしまう。
やはり、人類というヒト科の猿は無駄に脳の容積が大きい。その弊害であろう。ヤクザ悪左衛門は珍保長太郎の汚い字に苦労しながら、野菜ラーメンを注文した。野菜が好きなようだ。
よし、敵の出ばなをくじいたぞ。
珍保長太郎は、たくみな客さばきができたことを少しほこらしげに感じながら、業務用のラーメンスープの素をお湯で溶かしただけのスープをドンブリに入れた。店を出した始めの頃は、一所懸命、自分でスープを作っていたものだったが。
こんな手抜きのラーメンなので、とくに儲からない店には、なってしまったが、あのまま自分で創作ラーメンを出していたならば、とっくにつぶれていたことだろう。しかも、良いことに手抜きなので仕事が楽になった。どうせ、たいして儲からないのだから、仕事が楽で当然であろう。それが人生の収支バランスというものだ。
「これでトントン」というところだな」
無意識に思ってることが、また口から出てしまう珍保長太郎。
「なにがトントンだ?」
即座に反応するヤクザ悪左衛門。打たれた球は絶対に打ち返す。さすが、鍛えたプロである。
「いえ、独り言です」
あぶなかった。相手に付け入る隙を与えないように即座に答える珍保長太郎。狭い店内に緊張感が走る。オッパイデカ子は、なるべく関わりにならないように、早く食って出ようとしていたが、量が多くてまずいので、なかなか食い終わらないでいた。
豚野餌吉が爆弾を落とした。
「これじゃあ、せっかくのラーメンがまずくなってしまいますよ」
毅然と発言する豚野餌吉。さすが、豚である。豚だから、細かい状況が見えてないのである。知能が低いのである。ほんとうに余計な時に余計なことしか言わない。
「店長、態度の悪い客にはガツンと言ってやった方が良いですよ。店長はやさしすぎるからなあ……。昔、グルメ番組に佐野ラーメンのガンコ親父ってのが、よく出ていたでしょう。ラーメンの名店の店長なら、あれくらい客にうるさく言っても、むしろ客は、ああ、しっかりした店なんだなと感服するくらいですよ」
豚野餌吉の発言に見る見る人相が険しくなるヤクザ悪左衛門。もともと悪相だったものが、50人くらい殺して庭に埋めてる連続殺人鬼くらいに変化して行った。もちろん、空気の読めない豚野餌吉は、なにも気付かず続ける。
「あんな感じで、嫌なら出て行けっ!って一喝してやれば良いんですよ。こんなヤクザみたいな身なりをしてるやつに限って、だいたい、本当は小心者なんですよ。ビシッと言ってやれば、すごすごとごめんなさいという感じで出て行きますよ!」
そのビシッと言うのは誰だと思ってるんだ。
珍保長太郎は豚野餌吉の口の中に自分の大便を詰めて殺したくなって来た。
ビシッと言うだけなら簡単だが、ビシッと言ってしまったら、言った先の相手から何倍ものビシッとしたやつが戻って来るんだぞ。そのビシッとしたのを受け止めるのは、この俺なんだぞ。おまえ、自分の発言の責任をまったく取るつもりなく、ただ放言してるだろう!
俺はこの午後をなるべく平穏無事に終わらせようと努力しているのに、お前はこの午後を特別な一日に変えようとしているのか! これでは俺の人生の最後の一日になりかねない!
そんな珍保長太郎のエベレストのように険しい心の内にはまったく気付かず、豚野餌吉は、にわかに正義心が燃え上がり、しかも、その炎の結末の責任はまったく取る気はないようだった。いますよね、こういう人。
「そこのださいパンチパーマの人。そんなに嫌だったら、この店を出て行ったら? この店はね、あなたは知らないだろうけど、知る人ぞ知る名店なの。こう見えても格式が高いの。あなたのような下品な客がひとり減ったからって、痛くもかゆくもないんですからね!」
店長の代わりにビシッと言ってしまう豚野餌吉。この豚はどういう権限で俺の代理になっているんだ、と内心激怒の珍保長太郎。
「こんなヤクザまがいのばかに偉そうにされるのが、ぼかぁいちばん嫌いなんですよ! 一市民の代表のとして、身勝手な横暴を許すわけにはいきません!」
どうだと言わんばかりの豚野餌吉。このばか、そこにいられるのは『まがい』ではなく、ほんもののヤクザだ、地元暴力団のチンピラだ! と心の中で叫ぶ珍保長太郎。最悪の展開に泣きたくなって来た。
もちろん、ヤクザが侮辱されて黙っているわけにはいかない。侮辱されてなにもしないようでは、ヤクザとしては生きていけない。まして、相手が素人ならば……。
怒りすぎて行動に迷う、ヤクザ悪左衛門。また、この相手ならばどうやっても勝てると思うので、あわてないでとりあえず目の前に出ていた野菜ラーメンを一口すすった。
相手が即座に反撃して来ないので、愚かにも豚野餌吉は勝利宣言をした。だめ押しをするみたいなもんである。押されて落ちる先はもちろん地獄である。
「ほらっ、ビシッと言ったからだまってるでしょ! こういう卑怯な手合いは、真っ正面から言ってやると反撃できないんですよ!」
豚野餌吉は、俺、良いこと言ったなあ、男らしいよな、などと思いながら、オッパイデカ子に色目を使った。
これでちょっとこの豊満な美人も俺を見直すんじゃないかな。もしかして、俺の意外とマッチョな一面を見て、アソコが濡れちゃってるんじゃないの? などと想像して、にやにや勃起する豚。
もちろん、オッパイデカ子のマンコはまったく濡れていなかったが、豚野餌吉の身体は、もうすぐ血で真っ赤に濡れることになりそうだった。
オッパイデカ子は、もう少し世慣れていたので、この太った客とは今日初めて会って、たまたま隣同士になっただけの赤の他人だ、というふんいきを出そうと苦心していた。
「ぎょっ!」
ヤクザ悪左衛門がすっとんきょうな声をあげた。ほんとうに『ぎょっ』と言った。
珍保長太郎は、『ぎょっ』と言う人間を初めて見た。平和な時代ならば感心するところであるが、今はそれどころではない。
ヤクザ悪左衛門は、丼の中から箸でなにかをつかみあげ、珍保長太郎に突きつけた。箸の切っ先が出刃包丁のようにするどく感じられた。
「これはなんだ!?」
先日、キャベツについていた青虫だった。よりによって、最悪のタイミングで最悪の客の丼の中に、挨拶に出かけていたようだ。
「これは青虫ラーメンか!」
とヤクザ悪左衛門。
珍保長太郎は『青虫ラーメンとは、おもしろいネーミングだな』 と冷静に考えていた。死を前にした人間だけが感じることができる平静さである。珍保長太郎の体感時間が伸びて1秒が1分くらいに感じられた。さらに今までの人生の名場面が走馬灯のように頭の中をよぎってしまった。
そこまでやるのか。
自分の脳の先走った対応に感心する珍保長太郎。もうちょっと待ってもらいたい、と脳に訴えかけたかったが、自分の脳に話しかけるのは、一体感がありすぎて、あんがい、むずかしいものだった。
どうやったらこの場面を無事にやりすごせるだろうか……。
その答えは、お釈迦様でも、ご存じないだろう。瀬戸内寂聴なら、機転をきかせてこの危機をさらりと切り抜けられるだろうか、と珍保長太郎が現実逃避に走りかけたとたん、どこまでも現実主義なヤクザ悪左衛門が光速の壁をこえてすばやく動いた。
「こんなもの、食えるかッ!」
ちょっとぬるくなっている青虫入りの野菜ラーメンを、珍保長太郎の顔に叩き付ける!
ぐこきっ!
あまり聞かないようなたぐいの音が響いた。野菜ラーメンの丼の角が、珍保長太郎の額に当たり、目の前に星が散った。ラーメン丼というものは陶器でできているのでたいへんに硬い。その反面、おでこの肉というものは生肉でできているので、個人差はあろうが柔らかい場合がほとんどである。
しかし、おでこの肉をがちがちに冷凍したならば、それなりの硬度が得られる可能性も否定はできない。だが、現実的に考えて、常に頭の前頭部が凍り付いたまま生きていくというのは、エスキモーでもないかぎりむずかしいのではないか。
残念ながら珍保長太郎はエスキモーではなかった。そのために珍保長太郎の額はぱっくり割れて、中から……なんということだろう!……白い骨がちらちら見えていた。これは、もしかして痛いのではないだろうか。
赤い肉の割れ目の中に白い骨である。フェチな趣向な人間ならば性欲を感じるかもしれない。
ぴちゅぴちゅぴちゅ〜
なんだか、なさけない音を立てて血が吹き出た。へえ、血って大量に出ると音がするんだな、と珍保長太郎は、星がちらちらとまたたいている視界で外界を見ながら思った。
これが修羅場というものか。真っ赤な世界である。目が血走ってるのか、目の中に血が入ったせいか知らないが、視界は真っ赤でしかもいつまでも星が輝いてた。
赤い夜空だ……。
顔中が血で真っ赤に染まったことにより、珍保長太郎の血中のアドレナリン度が一気に上がった! 祖先であるチンパンジーの本能にしたがい、無意識のうちに手元にあった台所用品をつかむと、いっきにヤクザ悪左衛門のアイロンパーマの頭頂に叩き付けた。
ぺこーん。
たいへんに力のない音が、ラーメン珍長の細長い店内に響き渡った。手にとったのがお玉だったからである。このへんが珍保長太郎の間の抜けたところである。気のいいところと言っても良いのだが、この修羅場ではまったく歓迎されない性質のものである。
火に油を注いで、さらにまったくダメージを与えない。
珍保長太郎は目眩がした。
「人生の危機」
思ってることがそのまま口から出た。その通りであると思われる。
「人生最後の時」
その可能性も否定できない。
「きゃーっ、店長」
オッパイデカ子が黄色い悲鳴をあげる。おそらく.こういうときは若い女性はこういう反応をするのだ、という無意識に身につけた規範をなぞっているだけだろう。ポジショントークみたいなものだ。『型』で行動してるだけである。愛する人を心配している自分って女の子ぽくて可愛い、くらいに思っているにちがいない。
信用ならん。その証拠におびえているはずの大きな黒目が、微妙に喜びを表現しているように見える。ほんとうは絶対にこの事態を楽しんでいる気がする……。珍保長太郎は巨乳の美女を白い目で見ようとしたが、充血して真っ赤だったので、それは不可能だった。
「ひえええええっ! ぶひぃぶひぃぃぃぃっ!」
思った通り豚のような鳴き声をあげている豚野餌吉。正体破れたり! やはり、貴様は豚であったか。珍保長太郎は豚に詰問した。
「すべてお前のせいだ。すべてお前のせいだ。お前、なにがあってもこの店と味を守ると言ったな。はい、今がその時です。今すぐ、その贅肉を盾にしてヤクザに刺されて死んで、私の命を守りなさい」
「できません。守れません。ごめんなさい。前言を撤回します! ぶひぃぶひぃぃぃぃっ! ぶひぃぶひぃぃぃぃっ!」
あわてふためく豚野餌吉。この場合『あわてぶためく』と言い換えても良いだろう。なんか床に水たまりができてるな、と思ったら豚野餌吉が漏らした小便だった。
ブリブリブリッ! ブリブリブリッ! プーッ!
さらに豚野餌吉はうんこまで漏らした。とどめを刺すように屁までこいた。
「くせえっ! この豚、うんこ漏らした!」
ヤクザよりむしろこの豚に腹を立てていたので、珍保長太郎は豚野餌吉に冷たく言い捨てた。豚野餌吉は、いじめられた子供のような目で珍保長太郎を見返していた。
その時、ヤクザ悪左衛門が厨房に手を伸ばし出刃包丁をつかんだ。
「あぅ、やばい。これは本格的にやばい流れだぞ」
出刃包丁を手に迫って来たヤクザ悪左衛門を見て、珍保長太郎がうめいた。神でも仏でも瀬戸内寂聴にでも、すがりたい気持ちになって来た。
今から、瞬間的に風になりて京都に舞い降り、寂聴庵にお参りして5000円くらい寄付したならば、突然、巨大な猿などに変身した瀬戸内寂聴が代田橋に現れ、このヤクザを倒してくれないだろうか……。
「いかん、現実逃避に走っている」
もっと現実的な手段をとろうと思い、珍保長太郎は厨房内を見回した。酔っぱらい客撃退用の木製バットがあるのだが、残念なことに入り口の方に置いてあった。あわてているので視野が狭くて、ろくなものが目に入らない。さっき、野菜ラーメンに入っていた煮えた青虫がカウンターの上に転がっていた。
「もっとましなものが目に入ってくれないだろうか」
と珍保長太郎は思ったが、選んでる時間はないので、厨房に入って来たヤクザ悪左衛門に向けて、煮えた青虫を投げた。
ひゅーーーーーん。
かぽっ。
「ぬあほげああああああっ」
突進して来たヤクザ悪左衛門の口の中に煮えた青虫が入った。ここは笑うべきだろうか。葬式で笑うようなものなのだ、と思い珍保長太郎は自粛した。絶妙なタイミングで命中したので驚いた。
「どれくらいの確率でこんな現象が起きるのだろう。おそらく、100年に一度くらいのできごとだったのではないか?」
珍保長太郎は運を使い果たすのならば、こんなしょうもないことでなく、もっとありがたみのある場面で使いたかったと思った。
ふと思いついてオッパイデカ子を横目で見たら、誰にも見られてないと思って、うれしそうにニヤニヤしていた。このオッパイ女、やっぱりこんな性質か! おそらく他人の不幸を食料に生きている魔界から来た魔物か、それに近いものに違いない。
オッパイデカ子の正体に恐れおののいたものの、今はそれどころではないので、青虫が喉に入ったヤクザ悪左衛門が苦しそうに咳き込んでいるうちに、横をすり抜けて厨房から客席に出た。
あとを追うヤクザ悪左衛門。しつこい。どこまでも追いかけて来る。
「一番、運が悪いのは青虫かもしれんな」
本当にどうでもいいことをつぶやいてしまう珍保長太郎。
「うぬらべらかぁッ!」
奇声を発して突進してくるヤクザ悪左衛門。
ズッポリ!
いやな音を立てて出刃包丁が珍保長太郎の腹に刺さる。
ここでなぞなぞです。上が赤くて下も赤いもの、なーんだ? 頭と腹から血を流している珍保長太郎です。危機の時こそ、人間はくだらないことを考える。珍保長太郎は小学生向けのクイズを考えていた。
「こ、これはやばいんじゃないかな」
腹から出刃包丁の柄が出ていた。目を丸くする珍保長太郎。めったにない体験だからである。これが人生最後の体験になる可能性も高いが。ヤクザ悪左衛門が突き刺さった出刃包丁を引き抜く。
ぐちゃずぼっ!
にぴゃぴゃぁぁぁぁぁっ!
ちょろり!
よくわからん擬音だと思うが、包丁を抜いたので傷口から大量の血が吹き出たという音である。
「い…痛い! 神に誓って痛い!」
当たり前のことを大声で言う珍保長太郎。
「うおっ! うおっ! おっおっおっ!」
苦しみのあまりしまいには、水族館のトドのように咆哮をあげはじめた。それを見て思わず吹き出してしまうオッパイデカ子。
「ぷっ」
珍保長太郎が気付いて、すごく嫌な顔でオッパイデカ子を見る。豚野餌吉とヤクザ悪左衛門までも、あぜんとして巨乳の美人を見た。あわてて『心配している事件関係者の女性』という表情を取り繕うオッパイデカ子。もうすっかり手遅れである。
この女、ヤクザ悪左衛門よりやばいことは確かだな、と野獣の咆哮をあげながら珍保長太郎は思った。
大腸が切れたらしく、腹の中からうんこの匂いがする。切り裂かれた腹の中から、うんこの匂いがしてきた体験はあるだろうか。それはあまり生きた心地がするものではなかった。
「棺桶に両足を突っ込んでいる」
珍保長太郎が、またしても無意味な発言をする。
「タマ、取ったる!」
出刃包丁を手に二度目の突進を始めるヤクザ悪左衛門。この場合、タマというのは『睾丸を摘出して性転換させてやる』という意味ではなく『魂を取るぞ』という意味である。
「豚ガード!」
珍保長太郎が日本語の語彙にない言葉を叫びながら、豚野餌吉の後ろに回り、突進して来る出刃包丁とそのヤクザに盾として差し出す。
「ぶひっ?」
もちろん、たいへんに驚く豚野餌吉。驚くのがふつうである。
そもそも、ほぼ、この豚が原因でこういう事態になったのだから、その贅肉と脂肪の壁で責任を取ってもらうのは当然である、と珍保長太郎は考えた。
『ほぼ』というのは、青虫にも若干の責任があるように思われたからである。だがしかし、青虫はすでに煮られて他界してしまっている。
すでに仏になってしまったものを責め立てるのは、こくというものであろう、と珍保長太郎は考えた。
さらに、あの青虫、亡がらとなってからも、ヤクザ悪左衛門の口の中にいいタイミングで飛び込み、相手をひるませるという功績を立てている。
役に立っているという観点で見るならば、豚野餌吉の100倍もすぐれた存在である。だから、罰せられるものがいるならば、この豚野餌吉であろう。
「神さま、仏さま、瀬戸内寂聴さま! 宗教的な情け容赦ない不寛容さをもってこの豚肉に、ぜんりょくで苦しみを与えてください!」
と珍保長太郎。
神の使命をおびた十字軍の兵隊のように、ヤクザ悪左衛門が出刃包丁を突きつける。豚野餌吉は身体を丸めて避けようとする。キリスト生誕の名画のような美しい光景だった。
がっすん!
ちょっと嫌な音がした。
ふつうに生活をしていると、めったに聞くようなタイプではない音である。あまり見たくなかったが、見ると出刃包丁が見事に豚野餌吉の脳天に突き刺さっていた。
「おっ……、これは、ちょっと死ぬんじゃないかな」
珍保長太郎がほとんど明確な事実を、つぶやいた。
そんなことを言わないでくださいよ、と豚野餌吉はかすみはじめた意識の中で思った。ごもっともな話である。
ハッ!
もしかしてオッパイデカ子は満身の笑みを浮かべているのではなかろうか?
疑惑のまなざしで首を回して、後ろの巨乳美人を見る珍保長太郎。
オッパイデカ子は意外にも笑っていなかった。そのかわり、あきらかに性的に興奮したようすで恍惚とした表情を浮かべていた。
この女、濡れているんじゃないだろうか?
珍保長太郎は恐ろしさのあまり、冬でもないのに背筋に霜柱がたった。
「お前、まさか、この豚が死ぬ時にイッたりするんじゃなかろうな?」
思わず口にだして問いかけてしまう珍保長太郎。オッパイデカ子は、ずぼしをさされてあきらかにうろたえたが、とりつくろって返答した。
「なんの話でしょうか。まったく理解できませんね。きっと非常事態すぎて、動揺してるんですね。かわいそうな店長」
バカのふりをするオッパイデカ子。
それより、かわいそうなのは豚呼ばわりされた上に、脳みそまで出刃包丁が食い込んでいる豚野餌吉である。
ボク……しんじゃうの?
豚野餌吉は、死にかけの難民の子供のように、つぶらな黒目ばかり瞳で、珍保長太郎を見ていたが、やがて静かに目を閉じて動かなくなった。豚の天国に行ったのであろう。
ビクン!
「あ……」
オッパイデカ子が身体を震わせてから、小さく喘ぎ声を出した。表情を見るのが怖かったので、珍保長太郎は気付かないふりをした。
「やべ……」
ヤクザ悪左衛門はあきらかに動揺していた。ヤクザなので、もしかして、殺人かそれに近い前科があるのかもしれない。そのうえに殺人ともなれば、けっこうな年月を刑務所の中で過ごすか、へたをすると死刑だ。
こんな生きてる価値のない豚を一頭、殺しただけで死刑になるのはかわいそうだと珍保長太郎は思った。豚だから殺しても違法性はないのではないか? しかし裁判所は豚野餌吉を人間ということにして罪をさばく可能性が高いだろう。
ヤクザ悪左衛門は、おもしろくなかった。うっかりラーメン屋で関係ない客を刺し殺すとは。ヤクザ仲間では笑い者になるだろうし、警察からも一生逃げ回らないとならない。おもしろくない。ほんとうにおもしろくなかった。細かい計画はあとまわしにするとして、とりあえずはこの場を逃げ出すことにした。
「うおおおおおおおおおおおおっ」
暴走するサイのように駆け出すヤクザ悪左衛門を見て、珍保長太郎は危機が去ったのを知った。去ったと言っても血まみれだ。腹は裂けて血が止まらないし、ちょん切れた大腸からはうんこがあふれ出てきてるのである。腸の切り口から昨夜食べたまずい食い物が顔を出してると思うと気分が悪くなった。おそらく、潔癖性なのではないか。
「急いで救急車を呼ばなくては、あの世で豚野餌吉の出迎えに対面することになる」
珍保長太郎はふるえる指でスマホで電話をかけようとした。ショックと血を失いすぎたせいで、うまく押せない。血でぬるぬるして画面がすべる。まちがってユーチューブをスタートさせてしまった。
「ちょわーっ、あはっ!ズダダダダダン!」
よりによって昨日、途中まで見てたスティーブン・セガールのゴミ映画が始まった。しかも、近年のとくにできがわるい作品群の中の一本である。スティーブン・セガールが、なさけようしゃなく悪人を殺していくゴミ映画を見ながら死んで行くとは……。そう思うと感慨もひとしおだ。さよなら、人生。
なぜか急にユーチューブを見始めた珍保長太郎を見て、オッパイデカ子が近づいてきた。
ありがたい。俺のかわりに119番してくれるのか。これは助かった。どうみてもサイコキラーな気質の女だが、これなら、がまんして結婚してやっていい、と珍保長太郎が心の中で太鼓判をおしてると、オッパイデカ子が濡れた唇で言った。
「抱いて……」
珍保長太郎は気絶した。夢の中で豚野餌吉が出迎えてくれた。


あらすじ
代田橋でまずいラーメン屋を営んでいる珍保長太郎。来店した地元の暴力団員と喧嘩になり、居合わせた客のひとりが死亡、珍保長太郎も重傷を負う。指名手配された暴力団員は、逆恨みして、珍保長太郎の女友達をシャブ漬けにして廃人にしてしまう。怒りに燃えた珍保長太郎の孤独な復讐が始まる!
登場人物
珍保長太郎 :『ラーメン珍長』店主
豚野餌吉 : 客
オッパイデカ子 : 謎の女
ヤクザ悪左衛門 : 暴力団
糞賀臭男 : 暴力団
歯糞全身男 : 暴力団
死神酋長:医者