【怪奇小説】ヒトデ男の恐怖〜ブラザー・サン〜

12月 23, 2023

~ブラザー・サン~
モヤシは弱虫探偵団の仲間と別れて、家に帰った。
もともとはホラー探偵団と名乗っていたのだが、珍保長太郎が、いつもの調子で勝手に弱虫探偵団と呼び出して定着してしまった。
もちろん、この方が事実に近いというのは確かである。
モヤシの家は和泉町の沖縄タウンの横を曲がったところにある。見るからに貧困そうな安アパートである。
アパートの前は駐車場になっているのだが、いつもゴミが散らかっている。これは住人がゴミ出しの日を守らないのと、ゴミが散らかっていても、気にしない連中しか住んでいないからである。
アパートの前で隣のおばさんに会った。
「こんばんは」
律儀に頭をさげて挨拶をするモヤシ。おばさんと言っても、小学生のモヤシから見て、おばさんなのであって、実際はまだ三十前後であろう。
おばさんも挨拶を返す。美人だと思うが、いつも疲れた顔をしている。
おばさんの後ろに娘がいた。
「グミちゃん、こんばんは」
慌てて姿が見えないように、おばさんの後ろに隠れる。
五歳くらいの女の子で、極端に内気な性格らしく、一度も口をきいたところを見たことがない。いつも、モップとかいう名前の小犬と一緒にいる。
今日は犬の姿は見えない。
「グミちゃん、挨拶は?」
お母さんがたしなめたが、娘はだまったまま固まっている。
「すみません。この子はほんとに人見知りで……」
悲しそうに微笑むお母さん。
モヤシはこのおばさんと娘は好きだったが、その旦那は大嫌いだった。いつも酒に酔っている乱暴者で、よく薄い壁越しに彼らが口論をしている声が聞こえていた。
「ただいま」
家に入る。
奥の方でお母さんがお経をあげている声が聞こえる。
今までは河童を見た興奮や、友人たちとの語らいで大いに愉快な気分でいたのだが、家に入った途端に、ゆううつに襲われた。
元気をふりしぼって母親の顔を見に行く。
また、一段と頭がおかしくなっているようだ。
「お母さん、これはなに?」
母親は熱心な新興宗教の信者だったのだが、どういうわけか兄の写真や遺物が、仏壇に祀られていた。
「お母さんは、こうして毎日、お祈りを続けていれば、そのうちお兄ちゃんが帰ってくると信じているんだよ」
お母さんは、ぽつりとつぶやいた。
落ち着いた態度だが、目の焦点が合っていない。
モヤシはUターンして、自分の部屋に逃げ込みたくなるのを、こらえた。
モヤシの兄は十年くらい前に蒸発していた。きわめて優秀な人間で、顔もアイドル並み。ジャニーズに所属してもおかしくはない、とスマップ・ファンの母はいつも自慢していた。
夫婦の期待の星だったのである。ろくな勉強もしなかったのに東京大学に一発で合格。都立高校の先生たちの度肝を抜いたものだ。ところが、良かったのはそこまでで、どういうわけか、モヤシの兄は反原発運動にのめり込んだ。
これがやばい組織で、暴力革命も辞さないという連中だったらしい。何回か警察ざたになった騒ぎを起こしたあと、兄は公安に目をつけられた。このアパートも見張られていたとか。
そして、ある日のこと、兄はとつぜん姿を消した。地下に潜伏したという人もいれば、対立する組織に消された、という人もいる。それ以来、兄を見たものはいない……。
これがモヤシが、お母さんによく聞かされている兄の話である。その後、がっかりして、力が尽きたようにお父さんは癌で死んだ。
もうひとつ、変なものが目に付いた。
「お母さん、どうしてマグロの刺身が置いてあるの」
仏壇にトロが捧げられていた。
「お兄ちゃんはトロが大好きだったから。毎日、トロを出しておいたら、食べたくなって帰ってくるんじゃないかねえ?」
さびしそうに答える。
「その考えはいいんだけど、これすごく高いんじゃないの」
モヤシが気になったのは、この点だった。図星だったらしく、母は答えないで無視している。わざとらしく、さらに大声でお経を唱え始めた。
お母さんは働いていないので、モヤシの家庭は生活保護を受けている。金なんかほとんどないはずだ。食卓にマグロの赤身の部分の刺身ですら、出たのを見たことはない。それなのに、トロとは……。しかも、母親の口調では、知らない間に毎日、仏壇に出されて捨てられていたらしい。
これ、数時間、捧げてから、食べればいいのに……。
モヤシは、そう言おうと思ったが、母親はすでに心を閉ざしていたので、言わなかった。
「キャンキャン!」
部屋の窓が開いていたようだ。外から、いきなり、毛の固まりのようなものが、飛び込んできた。
「あっ、こら!」
隣の小犬だった。トロを狙っていたようだ。すばやく、トロをくわえると走り出した。お母さんは、もうぜんと小犬にタックルして、トロを取り返した。
「キャンキャン! キャンキャン!」
ちょっとトロのサクが大きすぎて、しっかりくわえられなかったようだ。味見だけしかできなかった小犬はふんまんやるかたない、といった様子で母親の周りを吠えて走り回ったあと、窓から出て行った。
「このバカ犬! いつもキャンキャン鳴いてばかりでうるさいわね!」
お母さんは、トロについた埃を丁寧に拭いて、仏壇に戻した。
「これはお兄ちゃんのトロなんだから。近海物なのよ。クイーンズ伊勢丹で、五千八百円もしたんだから。さあ、お兄ちゃん、早く食べに戻ってきて」
ふたたび、念仏を唱え出す母。
そんな高いやつだったのか……。
予想の二倍近い値段が、母親の口から出たのでモヤシはぎょうてんした。
うまそうだな。
犬がくわえたやつだが、脂がのって光っていて実においしそうだった。しかし、兄には食わせたくても、弟には食わせる気はないようだ。モヤシは悲しくなって、すごすごと自分の部屋に戻った。お母さんは、お経に夢中で、夕食の支度はしていない。
「お母さんを愛してはいるんだけど、五分もいっしょにいると、ほんとうにうんざりした気分にさせられる……」
机に向かってモヤシはためいきをついた。
「腹が減ったな。さっき、珍長ラーメンをくったけど。1/3だったし、あれ、大部分がモヤシだからな」
モヤシがモヤシを食ったので共食いだ、とも思いついたが、悲しい気分だったので、すこしも笑えなかった。
「もういやだ。こんな家」
モヤシは筆箱の中のカッターナイフを見る。
これで手首をずりずりとこすって切ったら、さぞや、すべてが変わってすっきりした気分になることだろう……。
モヤシはチキチキチキと音を立てて、カッターナイフの刃を出した。カッターナイフの誘惑。
「ばかばかしい」
モヤシは弱いが現実的であるので、自傷のゆうわくには打ち勝った。
でも、こうして、自分の身体を切り刻むことに中毒になる人もいるんだろうなあ……。
悪魔が耳元でささやいているのが聞こえる。
「でも、兄が帰って来たら、きっとすべてが良くなるさ!」
母親に兄のほめことばを聞いて育ったせいで、モヤシも兄の帰宅に希望をいだいていた。
お母さんはちょっとおかしいとは思うけど。
モヤシの想像の中では、兄は、誘拐されて、記憶喪失になっていた。自分が何者かは覚えていないが、そのずばぬけて高い能力を認められて、国際的なスパイとして大活躍をする。そして、今ではアラブで大金持ちになっている。
そして、ある日、バナナの皮を踏んで転んで、自分が何者かを思い出す。そして、十年ぶりに海を渡って、代田橋の実家に帰り、大金と幸せをもたらしてくれるのだ。
そんなストーリーを想像して、この惨めな境遇にたえていた。兄は希望の星だった。たとえ、それが、どう見たって、非現実的な星であっても、その者が生きていくためには、いつまでも光り輝いていないとならない。それがスターというものである。
「お兄さんが帰って来たら、すべてがひっくり返る!」
モヤシはもう一回、口に出してみた。それは甘い味がした。妄想の甘い味。この点では、やはり、お母さんの遺伝子を継いでいるといえよう。
ところで、兄がいなくなった時、モヤシはまだ赤ん坊だったので、まったく記憶がない。
モヤシは兄の写真をながめた。写真立てに入れて、机の上に飾ってある。古いから昔の人っぽい。
でも、確かに当時のアイドルはこんな姿かたちをしているなあ、とモヤシは思う。
「うるせえ、ばかやろう!」
ドシンと壁になにかがぶつかる音と罵声が聞こえた。いつものように隣が大喧嘩を始めた。仲が悪いなら別れればいいのに、とモヤシは思うが、世の中は複雑なようで、まだ、よくわからないことが、いっぱいある。
それから、隣のおばさんが金切り声を上げる声。人体を叩くような音。
モヤシは、うんざりした。
「もう、なにも聞きたくない。なにも見たくない」
早熟な小学生は耳をふさいで外の世界を遮断した。都合が悪くなると、自分の世界に閉じこもる。この点も母さん似である。自分が思っている以上にモヤシは母親に本質が似ている。
モヤシはふと誰かの視線を感じた。振り向いたが誰もいない。
「窓の外に誰かがいたような気配がした……」
モヤシは家の裏庭を見たが、暗くてよく見えない。
アパートの裏は狭い空き地になっていて、草がぼうぼう。じめじめしている。夏は蚊だらけになって、窓を開けていられないほどだ。古いエアコンや粗大ゴミが、不法投棄されたままになっている。
昔はここにドブ川が流れていたらしい。それを埋め立てて、上に建ったのが、このアパートを始めとする貧困者向けの住宅群である。だから、穴を掘ると地下水がいくらでも出てくる。ちょっとした湿地帯である。だから、家賃も安いのである。
地下には大きな配水管が埋まっていて、その中に今でもドブ川が流れているらしい。モヤシの家の裏庭には、その配水管に通じる下水口があった。
「そういえば、近所に痴漢が出るという噂を聞いたな。なんでも、元プロレスラーの男らしいけど……」
モヤシは身震いをして、しっかりと窓に鍵をかけて、布団に入って寝た。

 
あらすじ
呪われた町、代田橋。ここでは今日も怪奇現象が勃発していた。どうやら河童のような生き物が、赤堤沼から現れて、人間を襲って食っているらしい。『ラーメン珍長』のコックで殺人鬼の珍保長太郎は事件の解明に挑む!
登場人物
珍保長太郎:『ラーメン珍長』店主
バカ:新実大介
ヒルアンドン巡査:安藤正義
弱虫探偵団
モヤシ:坪内文二
キチガイ:今金弓彦
デブ:田淵哲
モヤシの母:坪内伊佐子
モヤシの兄:坪内拓也
中学生:唐木政治
中学生の弟:唐木将紀
ウルトラ:門前正月
奥さん:中島ルル
旦那:中島圭太
娘:中島グミ、5歳
小犬:モップ
元プロレスラー:三船龍太郎
大家:生源寺荘子