【怪奇小説】空手対幽霊〜薄くて黒い田中康司〜

〜薄くて黒い田中康司〜
時間は夜の十一時。田中は散歩に出ることにした。
「ザ・ミッドナイ〜ト。くふふ」
三流大学しか出てないが、田中は基本的にインテリだった。ただの散歩に出るにも、つい横文字が口をついて出てしまう。頭の中には、溢れんばかりの無意味な知識が、真夏の野原で死んで腐っている犬に湧いたウジのように、詰まっているのだから仕方がない。
田中の家の近辺は閑静な住宅街だった。武蔵野市で一番地価の高い地区。この近辺で家を買うとなると、数億円はかかるだろう。
犬の糞以下の存在のくせに、生意気なものである。
橋の下でじゅうぶんだ。
もっとも、田中一家はここらが高級住宅地域になる前から、たまたま住んでいたに過ぎないのだが。
そんな田中康司(二十九歳・犬の糞)だったが、最近は新しい喜びに目覚めていた。
覗きだ。
顔中がぶつぶつしたクレーターだらけの、眼鏡をかけたオタクは、闇にまぎれて静かな住宅地を歩く。深夜十一時。東京でもひとけが減り、静かになる時間。田中は耳をすまし、あたりに注意を払いながら歩く。歩く。超音波をキャッチして、昆虫を捕獲するコウモリさながらだ。
「ボクは東京コウモリだ。くふふ」
田中康司(二十九歳・犬の糞)は、ニヤリと笑った。かっこつけてるつもりの、一人芝居らしい。もちろん、かっこわるいに決まっておる。
「黒くて薄い。俺に厚さはない。捕まえられるなら、捕まえてみろ。俺は滑るように飛ぶ。つるつるして、よく滑る。誰にも見えない」
見えないわけがない。知識はあっても、頭がバカなのだ。
「気をつけなくては、ならないのは、警察だ」
田中は慎重に歩を進めた。夜道のお巡りほど、たちの悪いものはないからなッ!
連続殺人鬼に会う方が、よほどマシだッ!
自転車に乗った二匹のウジムシめッ!
ボクは薄くて黒い田中康司だぞッ!
二十九歳ッ!
堂々とした童貞ッ!
チンチンが臭いッ!
そんな狂ったようなことを考えながら、歩いていた田中の耳に、女の声が聞こえた。場所は、田中が定点観測している、壁の薄い古いアパートの一階である。窓が通りに面していて、女の声はそこから聞こえた。
「女だッ! 女の声だッ! いやらしいッ! ああんッ! エッチ! エッチ! 陰毛陰毛! マンコ濡れ濡れ女めッ! きっと今に外に聞こえるくらい、激しいオマンコを始めるに違いないッ! いや、始めて下さい」
田中は小声で、祈るようにつぶやいた。口に出して言うと、興奮するからである。田中の股間の小鼠は、硬くなってきた。
まわりを見回す。通行人——特に自転車に乗った糞お巡り——がいないか注意をし、慎重に窓ガラスに近付く。耳をすます。いやらしそうな女の声が、よりリアルに聞こえてきた。
「いいぞッ! いやらしいッ! ああッ! いやらしいなあッ!始めるぞッ! 始めるぞッ! セックスだッ! 女のセックスの声が聞きたいッ! ボクは聞きたいのだッ! 声をッ! 性行為中の音をッ! ビッグでラウドな性行為サウンドをッ!」
興奮した田中康司(二十九歳・童貞)が、ズボンの上からチンチンを握った。なかなかうまくはできないが、布越しに亀の頭を擦る。田中はこの為にゆったりしたズボンを履いていた。
「皮の不完全な往復運動だッ!」
だが、田中は決して、チンチンをニョキリと外に出すことはなかった。
神に誓って決してないともッ!
そんなのは犯罪だッ!
田中の平凡な一家が、信仰している韓国系新興キリスト教の定義でも、そのような行為は、もちろん許されるものではない。だから、自分の身体に与える刺激は、ズボン越しに亀を擦るだけにしていた。犯罪者の見本となるような、敬けんな信者ぶりである。
犯罪と信仰は、ちゃんと両立するのであるッ!
田中は真面目かつ、極端な小心者だった。ネズミに似てくる、ゆえんである。
また、窓ガラスを開けて中を覗くようなことも、断じてしなかった。
そんなのは犯罪じゃないかッ!
たまたま、窓ガラスが開いていた、またはカーテンに隙間があり、性行為中の姿が見えてしまった……。
これは合格でセーフであるッ!
田中の頭の中では、厳格な法的線引きが行われているのである。
ボクは合法的な覗きなのです。
もちろん、アパートの敷地に入ることも、なるべく避けなくてはならない。
それは住居不法侵入だ。
人の迷惑になることを、したいわけではないのだ。
たまたま、勝手に聞こえてくる、あえぎ声を、おすそ分けしてもらいたいだけなのだ……。
田中康司(二十九歳・貧相)が覗き行為に、はまり出してから、すでに数年が経過していた。
最初はただの深夜の散歩だった。昼間寝ていて、夜しか起きていないのだから、散歩も当然、深夜だ。
『運動は身体に良い』などと、不健康きわまりない青白い顔で歩いていたら、たまたま近所のアパートで、セックスをしている若い女の声が聞こえてきたのだ。
どきどきしながら、駐車場に面しているその部屋に近付き、耳をすました。窓にはカーテンがかかり、中は見えない。だが、激しくハメハメしている声が、外に漏れていた……。
ああッ!
ハメハメ!
ああッ!
ハメハメ!
田中はあたりを見回した。深夜なのでひとけはない。奥まった場所にあるアパートだったので、すぐに人の来そうな気配はない。田中はチンチンをニョッキリ出した——今なら当時よりも慎重になっているので、このようにニョッキリ出してしまうことはない。
皮をかむった赤黒いものが、月の方向を向いて直立不動していた。匂いは臭かった。誇らしい我が息子よ。ともに歩む人生の同志。ハラカラよ。
女の声は激しい。クライマックスの最中に通りかかったようだ。彼女が終わる前に、イカなくてはッ!
田中は激しく、我が子をしごいたッ!
すぐに精子が出た。三十秒もかからなかった。田中は出した途端、急に身の危険を感じた。そこで余韻を楽しむこともなく、足早に現場を立ち去った。自分のしでかしたことに、恐れおののきながら……。
なんと、大量の精液が駐車場の地面に、まき散らされたことかッ!
田中は酔っ払いがゲロを吐くように、たくさん出した。
栄光の瞬間だ。
闇夜にセロリ臭い白い花が咲いた。
美しい。
ボクの精液は美しい。
それからだ。田中康司(二十九歳・手がチン臭い)の孤独な深夜の彷徨が始まったのは。
もちろん、覗きが目的で散歩をしているのではないッ!
ボクはそんな汚らしい人間ではないッ!
ボクは潔白だッ!
気が弱いのが玉に傷だが、基本的に法律を順守するまっとうな市民であるッ!
だが……。
世の中には偶然というものがあるではないか?
性欲に負けた、けだものじみた不潔な若い男女が、貧乏臭い安アパートで、薄壁の外に聞こえるほどの大声で、交尾に耽っている物音を、たまたま耳にしてしまうこともある。
まったく、汚らわしく不愉快な出来事であるッ!
しかし、我とて、若きホルモンの煮えたぎる、童貞の健康な若者。そんな現場に立ち会えば、チンチンがニョッキリと月の方を向いて、起立してしまうのは仕方がない。
ボクだって、近代的人間である前に、生物だッ!
もちろん、そんな物音に聞き耳をたてるなどということは、倫理的に見れば決してほめられたものではない。しかし魚心あれば水心。天の上の神様だって、微笑んで許して下さるに違いない。むしろ、自分の若い頃を思い出して、こっそり、前を硬くしているかも知れない。神は柔軟な存在だ。時には硬くもなる。
第一、これくらいならば、決して違法ではないからな。ニョッキリを外にさえ、出さなければ。きっと、きゃつらだって、『外に聞こえてしまうッ!』とわかって、あんないやらしい声を出しているのだ。カンジタ臭いマンコ女めッ!
『ああん、誰かに聞かれたら、淫乱女だと思われてしまうんッ!』
などと、興奮してやってるに違いないのだ。
覗く側と覗かれる側、両方の倫理的、神学的な罪の重さを天秤に乗せて比べたら、どっちもどっちではないか。
言わばこれらの音声は無料のサービスだ。上野公園で、慈善団体がホームレスに配るオカユのようなものだ。それなら、食べてもかまわないだろう。
人生にはちょっぴり、スパイスが必要なものさ。天の上で前を膨らませている神様だって、訳知り顔で片目をつぶって、見て見ないふりをしてくれるに違いないさ。
だが、その最初の覗き——否、覗き聞きとでも言うべきか——の成功以来、なかなか満足させるような、覗き聞きの現場には、遭遇できなかった。やはり合法的な範囲で、無理をしないで、行動をしているせいかも知れない。
本当の犯罪者的な覗き常習犯になると、堂々と民家に侵入し、寝室のドアを開けて観察するという。田中は自分がそんな風になってしまうことを恐れていた。
サタンの誘惑に苦しみ、神様に祈り耐え忍んでいた。
そんな試練の日々の中から、生み出された田中内基準が『ニョッキリを出さない』であった。覗き行為は、田中を宗教的に成長させていたのである。神様も苦笑い。


あらすじ
空手家の黒岩鉄玉郎は弟子と肝試しに廃屋に入る。そこで見つけたのは、女のミイラ。それは異常な変質者にレイプ殺人されてしまった女子大生だった。ところが黒岩鉄玉郎は、女ミイラを空手で粉砕する。激怒した女ミイラの悪霊は、彼らを呪い殺していく。空手対幽霊という物理的に不可能な戦いが始まった!
登場人物
黒岩鉄玉郎 : 空手家
如月星夜 : ホスト
田中康司 : 糞オタク
堀江 : デブ
結衣 : 風俗嬢
女子大生 : 被害者
青田寧男 : 新宿署刑事

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